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千葉茂コラム


昭和13年松山商から巨人軍へ入団。1年目から3番レギュラーとして出場し、川上、吉原と共に若い力で戦前の巨人をリードした。

昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦。千葉は東西対抗戦のため甲子園にいた。その日の朝、平山、吉原らと食堂に行くと、先に来ていた沢村が「戦火が広まったぞ、おまえら(召集されたら)よっぽど気をつけて行ってこい」と一声かけた。そして昭和17年、他の多くの選手がそうであったように、千葉もまた兵役にとられていく。

昭和20年11月23日、終戦間もない神宮球場で、旗揚げの東西対抗戦が行われた。そこにはエースとして出場するはずの沢村、そして親友の吉原の姿がない。沢村は3回目の召集で輸送船の中、台湾沖で魚雷にやられ、吉原もまた戦火に倒れ無念の最後を遂げたという。

プロ野球(職業野球)は翌年から再開されたが、世相は未だ敗戦の爪痕深く、人々は失望し、生きることに精一杯であった。「戦地から選手が戻らない人員不足の中、我々は“生きて帰った。また野球がやれるんだ”という思いで必死にプレーし、観る人に夢と生きる希望を与えられた。」と語るように、野球人たちの活躍がどれほど戦後の復興に寄与したかは計り知れない。

戦後、野球人たちは様々な施設へ慰問に訪れたという。孤児院をはじめ、戦犯者が収容されていた巣鴨プリズンもその例外ではなかった。当時巨人軍の選手たちは毎年オフになると古くなった野球道具を子供たちに贈り、それを使って野球を教えていた。現在各地で行われている野球教室のはしりであるが、野球が広まった背景には当時の野球人たちのこうした草の根活動があったことも忘れてはならない。

こうして、戦後フィールドの内外問わず、駆け回った巨人軍選手たちは、やがて川上が戻り、別所、青田と顔触れが揃うと、昭和26〜28年まで3連覇を成し遂げる。その後、時代はONの活躍するV9時代に突入していくが、第2期黄金時代と言われたこの時期に強い巨人軍の基礎を作った中心選手が千葉・川上であった。千葉は巨人軍に根づいている伝統をこう語る。「川上が4番打者を王に、わしが背番号3を長嶋に譲った。そのとき野球そのものを奴らに譲ったんだ」と。

プロ野球の歴史を自らが刻み、自らの目で観てきた千葉は、今もなお、OBクラブで野球振興に力をそそぎ、一方で評論家としてその流れを見つめ続けている。

(1998年8月)