TOP > 千葉茂コラム第7回

千葉茂コラム



「楽しかったぁ〜!!」開口一番、野球少年のような無邪気な笑顔が猛牛の顔いっぱいに広がった。千葉の郷里、松山坊ちゃんスタジアムで行われた四国で初のプロ野球オールスターゲーム。翌日の愛媛新聞一面には“球都”の文字が躍った。

松山出身の俳人・正岡子規は、野球をこよなく愛し、その情景を見事に詠み込み、詩に息吹を吹き込んだ。また、「野球:のぼーる」の雅号を用いたことでも知られている。草創期の野球を広めたのは、ここ松山が起点であったとして、その功績を称え、この度子規の野球殿堂入り表彰がオールスターゲームの最中、5回終了時に行われた。

「松山はね、穏やかで静かなところなんだ。子規のようなすばらしい俳人・歌人を多く輩出し、どちらかというと勉学に長けている土地柄であるのに、なぜ闘争心が芽生えるような野球が松山に根づき、発展したのか…。恐らく子規が導き、文武両道の道を開いたのではないかなぁ」。

坊ちゃんスタジアムが完成した当時、千葉はその名前をどうも気に入らなかった。「坊ちゃん!?軟弱な名前だなぁ…。松山には影浦 将というすばらしい先輩がいる。影浦球場としたほうがいいではないか」。やや声を荒げながら主張した。しかし、「だんだん、だんだんなじみが出てきたよぉ」と今では親しみを憶えてきた様子。

夏目漱石「坊ちゃん」の舞台となった松山に誕生した球場だから「坊ちゃんスタジアム」。市民の投票で選ばれた名前である。松山の市民は知らず知らずの内に子規の精神を受け継ぎ、文学(学問)と武道(野球)を融和させた名前を選んでいたのではないのだろうか。

「松山のオールスターで、殿堂入り表彰をしたのは、沢村栄治でもない、影浦 将でも、川上哲治でも、長嶋茂雄でもない。正岡子規であったことに大きな意味があったんだよな」。そう言って、左右の手のひらを勢いよくパチン!!と合わせた。“文武両道”紙面を飾った“球都”の言葉が鮮明に蘇った。

オールスターの松山誘致に昨年から東奔西走した千葉は、正岡子規記念館初代館長の和田茂樹氏(91)とともに、松山の市民栄誉賞第一号に選ばれた。昭和10年の松山商業甲子園初優勝、名二塁手として王者巨人軍の礎を築いた功績、戦後初の巨人松山キャンプへの招致、そして2002年、松山オールスターの開催など、数々の功績を認められての受賞だった。

「郷里に帰っても何てことなかったのに、今までのつけが一気にここで来たなぁ…。急に注目されるようになっちゃった」と照れ臭そうに笑いながら、「これから時々ふるさとへ帰ろうかな」とポツリつぶやいた。

オールスターゲームの前には、「のぼさんの野球大会」と銘打った子規の時代(明治)の野球が当時のままの姿で再現された。市の有志が資料をひっくり返して研究し、専門学校に通う女子生徒たちが一点一点丁寧に縫製した当時のユニフォームは、風通しが良く、とても涼しかったという。「このユニフォームを縫ってくれた女学生たちが今日の最高殊勲選手だ!!」。千葉が称えたくなるほど、松山の人たちは野球を心から愛し、オールスターゲームを心から待ち侘びていた。

5回裏、子規の表彰の時、心地よい爽やかな風が強くスタジアムを吹き抜けた。野球を愛した子規と松山の大地が「おかえりなさい」。そう囁いているかのようだった。

(2002年8月)


2002年12月9日に千葉茂さんはご逝去されました。
永年の功績に深謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。