TOP > 千葉茂コラム第6回

千葉茂コラム



「野球は、日本戦後の復興に最も貢献した。そのことがプロ野球人として一番の誇りなんだぁ…」。猫背だった背筋をグンッと伸ばして千葉は誇らしげに微笑んだ。

昭和20年11月23日。終戦からわずか3ヶ月。絶望と虚脱感が日本列島を覆う中、ひと筋の光が蘇った。戦後初のプロ野球・東西対抗戦。神宮球場は、押し寄せるファンの熱気がグラウンドまでなだれ込み、球場全体が小さく見える程、人々の悦びが溢れていた。

「使えるものがあったら何でもいいからもってこい」。兵役を終え、郷里に戻っていた千葉は、松山中の運動具店を走り回り、何とかグラブ1つ。そして旅路の食糧焼きおにぎり5日分を抱え、勇んで上京した。「生きて還った」。「また野球がやれるんだ」。無心で白球を追うことのできる悦び。そして、生き生きとグラウンドを駆け回る選手たちの躍動感は、どれ程人々の心に潤いをもたらしたか測り知れない。食糧難の時代、あるいは空腹を忘れる唯一の希望だったのではあるいまいか。「軍服をユニフォームに着替えたんだ」。哀しみの時代が終わったことを実感した心の現れようだった。

明けて21年。「松山ならなんとかメシにありつけるだろう」と戦後初の巨人キャンプは、郷里の松山で開かれた。キャプテンとしてチームの柱となっていた千葉は、それから食糧の調達に東奔西走することになる。同郷の山田潔と共に今日は山へ。明日は海へと一日中走り回った。経済警察の監視をかいくぐるため、搬送は夜更けを待って行われた。練習する間も惜しんで苦労して運んだ米が食卓に並ぶと、「オヤ!?なんとなく少ない。どうも宿屋がちょろまかしたな…」。1合の米が八尺程に減っている。生きること。食べることが何より優先していた時代。豪傑25人もの選手を抱え、食いつなぐことが千葉の務めだった。

「練習なんてする暇ないよぉ。ボールなんて触らない。バットなんて握らない。そんなことしなくたって練習はできるんだ」。大発明だったと自負する練習法は、体ひとつに30kgの砂を詰めた米俵。食糧調達の合間を縫っては、かついで歩き、時には背中に回して柔軟体操を繰り返した。

「今のウェイトの機材は、何だか他人行儀だなぁ。違和感を感じるよ」。日本古来からの米俵は命のようなもの。それを使ってトレーニングすると愛情が伝わってくる。親近感が沸いてくるのだという。「体の基礎を作っておけば、あとは何だってできる。フィールディングだって、バッティングだって。そういう自信があったんだ」。

最近テレビを見ていると、キャンプ・イン当初から投げ込みを始める選手がいる。それを「仕上がりが早いから今年は期待できる」と評する声を耳にする。千葉に言わせると「キャンプは基礎体力作りの時期なんだ。ボールに触りたい気持ちを我慢できなくなるまで溜めておく。自然に触る時がくるのを待つんだ。それが、キャンプ本来の姿だ」。

毎年、巨人は芦屋の竹園からキャンプ地に差し入れがある。大飯食らいの選手たちだからとこれまでは、お腹に溜まる肉などを贈ってきた。ところが、今年巨人が要望したのはなんと「水」。練習したら喉が乾くから…と。これには千葉もひょうし抜け。「時代が変わったもんだなぁ。水なんて栄養にもならないよ」。満ち足りた今の飽食の時代。かつてはどんなに物がなくても水だけはあった。その時から考えると信じられない気持ちでいっぱいである。「練習したら脂っこいものがほしくなるだろう。…っちゅうことは、その程度の練習しかしてないってことだな」。そう言って時のうつろいを楽しむかのように高らかに笑った。

「終戦直後のキャンプは、2000万円の宿賃を一度に払えず、上京がてら地方巡業して3回に分けてなんとか支払ったんだ。だから自分たちで稼ぎ、自分たちでプロ野球を造り上げてきた。戦後復興のため、俺たちの野球が人々の気持ちを盛り上げてきた。プロとしての誇り、絶対の自負をもっている」。鼻の前に拳をつくり、自身に満ちた笑顔は、猛牛と呼ばれた若かりし頃の勇ましさを漂わせた。「松井よ、ワラの匂いをかぎなさい」。その言葉が深く心に染み入ってきた。

(2002年5月)