TOP > 千葉茂コラム第5回

千葉茂コラム


「絶対にうまくなる!」

昭和33年、当時のジャイアンツ代表から一本の電話が入った。

栄光の背番号“3”を長嶋茂雄へ―。

千葉が引退して一年、グラウンド上に“3”の姿はなかった。優秀な若手が入ったら譲ってもいい。そう考えながら二軍監督として後継者の出現を待ちわびていた。

“3”はあのベーブ・ルースもつけていた栄光の背番号である。千葉は先代の中島治康選手から「名誉ある番号だから傷つけないようにがんばってくれ」と譲り受けた。プレッシャーよりも伝統を受け継ぎたいという自負が先に立った。

中島は千葉のプレーをよく知っていた。戦前共にプレーし、戦後監督となることを機会に「こいつなら」と後継者に選んだのだ。一方、千葉にとって長嶋茂雄は未知数だった。そのルーキーに中島から譲り受けた言葉と同じ言葉を、そして祈りを込めた“SPIRIT”を譲り渡した。

「うまくなりすぎたぁ。(おかげで)千葉がかすんじゃったよ」。V9―。王と組んで華やかな黄金時代を築き、受け継がれた背番号“3”はわずか4代で幕を閉じることとなった。

「永久欠番」―。その選手の功績を称え、背番号は凍結される。だが、ジャイアンツの“3”の功績は何も長嶋茂雄に限ったことではなかった。アメリカ遠征で易々と予告盗塁を決めていった初代の田部武雄、ワンバウンドのボールでもスタンドへ放り込んだ中島治康、そして名手・右打ちでならした千葉茂。4人が4様のプレーでスタンドを湧かしファンを魅了し、そろって後に殿堂入りを果たしている。

誰で欠番にしてもおかしくなかった。だが、その受け継がれた“3”がスターを生み出し、ひいては長嶋茂雄という今世紀最大のエンターティナーを世に送り出したのである。野球選手にとっての背番号とは不思議なもので、名前よりもその印象度が強い。つける人が代わっても、その番号を目にすると先代のプレーが脳裏をよぎることがしばしばある。しかし、ジャイアンツの“3”は代わるたびに後継者がその壁を乗り越え、自らの番号に取り込むことができた。その最たる者が長嶋茂雄だったのかもしれない。

千葉が近鉄の監督をしていた頃、移動の汽車がジャイアンツと一緒になることがあった。すると長嶋は自分の乗車している二等から三等車両までやってきて尋ねた。「ファウルのうち方を教えて下さい」。苦手の球を打つとどうしてもフライになる。それをファウルにできると助かるというのだ。ファウル打ちを聞きに来たのは、ウォーリー与那嶺以来二人目である。

当時の長嶋は、スライダー気味の外角へ流れる球がフライになる傾向があった。そこで千葉は、初めて長嶋茂雄にアドバイスした。「右手を返すな。左手で引っ張れ」。その年、長嶋は打率3割5分3厘で三度目の首位打者に輝いている。生涯最高打率であった。

「長嶋の後で野球をやってみたかったなあ。そしたら、もうちょっと豪快な野球をやれたかもしれない…。柔(田部)→豪(中島)→柔(千葉)→豪(長嶋)ときた。この後に再び千葉がいたかった―」。そう語る千葉は今秋、ジャイアンツの背番号“3”を背負い、長野OBオールスターズのグラウンドに立つ。

先日、長嶋監督続投の意向が報じられた。「長嶋という男は20世紀No.1のプレーヤーだ。2000年、20世紀から21世紀へ長嶋が夢の橋を架ける。そういうことだ」。大きく振り出された左右の手には、今も生き続ける栄光の背番号“3”の自負が今にもこぼれ落ちそうなほどいっぱいに溢れていた。

(1999年8月)