TOP > 千葉茂コラム第4回

千葉茂コラム


「体が動かないので今日限り辞めさせてもらいます」。

昭和31年夏、甲子園球場での阪神戦を終え、千葉は水原監督へ直訴した。松山商業を卒業して19年、38歳となった体は、暑い夏を越せなくなっていた。

国鉄のエース金田正一の右打者の膝元へくい込む速球。そして、大洋のサブマリン秋山登の外角へ逃げるストレートをミートに定評のある千葉がファウルにすらできない現実がそこにあった。「疲れたなあ。もういいだろ」。センチメンタルな気持ちではなかった。

ジャイアンツのコーチ、二軍監督を経て新転地大阪へ。万年最下位、パ・リーグのお荷物とまで言われる近鉄の監督として新たな一歩を踏み出す。

就任が決まってすぐ、球団名を「パールズ」から「バファロー」に変えた。もちろん千葉のニックネーム「猛牛」にちなんだものだ。公募を行ったところ、ファンからの要望が最も強かったという。球団名の変更に伴い、球団マークの制作にも取り組んだ。依頼先は大阪万博「太陽の塔」で名高い芸術家、岡本太郎氏。野球好きの岡本氏とは銀座での呑み仲間だった。「なんとかマークを描いてもらえないか」と頼み込みわずか10万円で引き受けてもらった。仕上がったものは、鋭い角と丸い目を持った猛牛の顔。そう現在でも親しまれているあのマークである。

「だんだん、だんだん良くなるなぁ」。今近鉄のユニフォームを見つめながら誇らしげに笑う。

慣れ親しんだジャイアンツのユニフォームに別れを告げ、「近鉄のこどものなる為に来た」。就任の挨拶でそう語った千葉は以後3年間、チームへのプロ意識の浸透に奮闘することとなる。

当時の近鉄の選手は、闘争本能もプロとしての誇りも欠落したコンプレックスのかたまりだった。それを象徴する一つのエピソードがある。昭和34年5月30日、駒沢球場での対東映戦。東映のランナー山本八郎が本塁上で近鉄の選手とつかみ合いになった。ところが近鉄ベンチから飛び出すものは一人としていない。「なんたることだ」。千葉は思わず「いけー!やっちまえ!」と叫んでいた。監督自らが暴言を吐いたとして戒告処分―。「元気が欲しかった。それが近鉄に来た使命だった」。

体質改善のために、チームの指針、内務規定を定め、プロとしての在り方を説いて回った。グラウンド外での交渉の方が大変だったというのだから、今で言うGMの役割も担っていたことになる。移動の汽車を3等から2等へ。キャンプ費用をジャイアンツへ近いものに。さらに、賞罰制度と―。

近鉄は、千葉を迎えるまでアマチュア出身者を監督に迎えていた。「いくらノックバットで選手を鍛えても知れてる。プロ野球は金ののべ棒で強くなるんだ。アマチュアは安く仕入れて高く売るが、プロは高く仕入れてさらに高く売る。大阪だけのチームではダメだ。もっと日本的な存在にならないといかん」。テールエンドのコンプレックス解消に燃えて、バットも体もボロボロになる3年間だったと振り返る。

千葉は、それ以来どこの球団のユニフォームも着ていない。「あれはBuffalowというよりCowだ」。厳しい口調で語る胸のうちには自分が監督となった当時、ファンが望んでつけてくれた「バファロー」というチーム名と「覇気と躍動感のあるイメージアップを」と岡本氏が作ってくれた球団マークへの愛着と淋しさが漂っていた。

(1999年6月)