TOP > 千葉茂コラム第3回

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昭和13年、藤本定義監督率いるジャイアンツは打者ばかり8人を補強した。当時1チームの選手は約35人で、例年2、3人獲るか獲らないか。藤本監督の胸中には、主力選手が兵役に取られてしまうこと、そして何より、前年、“タイガースに打ち負けた”という思いがあった。“守”から“攻”の野球へ、大幅なチーム改革である。

効果てきめん、翌14年から5連覇を成し遂げる。第1期黄金時代−。その中心となったのが彼等8人衆。世に言う“華の13年組”の活躍だった。強いジャイアンツの基礎はここから培われていった。

なかでも千葉が注目したのが、川上哲治―吉原正喜の熊本工バッテリーだ。吉原正喜は、走・攻・守揃った上に、闘志あふれるキャッチャーだった。ある日の後楽園球場、一塁側に上がったフライを追ってベンチの屋根に頭から激突。その後1週間、吉原の血痕と頭髪が屋根に残った。ゾッとする話だが、そこまで激しく強打したにも関わらず、もちろん球は離していない。これは、ファイター吉原を象徴するプレーとして今でも千葉の脳裏に深く刻み込まれている。

「キャッチャー!キャッチャー!」投手が打ち込まれると藤本監督は自分の頭を指差しながら叫んだ。「なんでピッチャーが打たれたのに俺が怒られるんだ」。吉原はよく愚痴をこぼした。やがて“自分の配球ミス、野球はやはりキャッチャーだ”と思い直し、以後は状況に応じて野手の守備位置を変えさせた。今でいうID野球の先駆。当時の野手陣は後に大監督(中島治康、水原茂、三原修など)になった人ばかり。20歳の若僧の言うことに30過ぎの男たちは文句も言わずに従った。それ程吉原という男は天真爛漫な、天性のチームリーダーだったのである。

一方、川上哲治といえば“打撃の神様”として有名であるが、当時は熊本工のエースとしてジャイアンツへ入団。軟投型で、左のアンダースローという今でも珍しいタイプのピッチャーだった。

打者へ転向したのは、入団翌年の昭和14年途中から。奇しくも首位打者を獲得したその年に、開幕投手も務めている。北海道遠征の途中、ファーストでスタメン出場。4打数3安打、二塁打2本と、その日の殊勲選手となって、一気に打者として開花。左中間へ打ち返す打球が多かったことから“弾丸ライナー”の強打者としてその名を馳せていく。

千葉は川上と退団まで同じ給料だった。球団も「二人を抑えれば後は右へならえ」と踏んでいた。どちらか一銭でも高ければ契約しない―。そんな負けまいとする根性が互いにあった。「俺がいなければ川上はあれだけの男になっていない。あいつがいたから今の俺がある。励みになった」と長年のライバルについてこう語る。「球界のきんさんぎんさんだ」―。

吉原とは16年春、入隊のための帰路、尾道の駅で別れた。「今度また野球をやれるようになったら、一緒にやろうな」。最期の言葉だった。19年ビルマ、インパール作戦で戦死。25歳。「日本のプロ野球の歴史において、奴がNo.1のキャッチャーだ。楠、武宮、藤原、森…。吉原が去って60年。ジャイアンツは今年もキャッチャーで苦労しとるなぁ…」。常勝巨人軍を支えた“華の13年組”の勇姿が偲ばれる。

プロ野球の歴史を自らが刻み、自らの目で観てきた千葉は、OBクラブで野球振興に力をそそぎ、一方で評論家としてその流れを見つめ続けた。

(1999年5月)