TOP > 千葉茂コラム第2回

千葉茂コラム


千葉が巨人へ入団したのは昭和13年。この頃の巨人には、創設期からチームを引張る二大投手が人気を博していた。

沢村栄治とビクトル・スタルヒンである。

戦地からいったん帰国した沢村はすでに全盛期を過ぎていた。それでも左足を高く上げるダイナミックなフォームから繰り出されるストレートは、打者の膝元から入ったと思うと胸元へ“グーン!!”と三段ホップした。それに加え、高めのボールゾーンから低めに急落するドロップがあった。

今年数々の救援記録をぬり変えた横浜ベイスターズの佐々木主浩投手のフォークよりもその落差は大きかった。

一方のスタルヒンもまた剛球でならした。球速はどちらも150km/時を超えるが、球質は異なる。沢村の球が打者の手元で伸びるのに対し、スタルヒンは六尺三寸(190m)の長身から投げ降ろす重い剛球。どちらが速いかというと、打者の手元で伸びる分、沢村のほうが160km/時ぐらいに感じられたかもしれないが、いずれも並のバッターが手に負える代物ではない。

千葉は二人にまつわるエピソードを持っている。

沢村はバッティングが好きだった。右利きにも関わらず、試合でも練習でも必ず左打席に入った。右だとあんまりよく打つので気が散って投球に集中できなくなるだろうと、わざわざ不慣れな左で打てと命令されたまでのことだ。それでもうまくミートしてランナーを還したというのだから生まれながらの名人肌であったのだろう。

沢村は厳格な人柄で畏敬を感じさせたのに対し、スタルヒンは優しく、気さくでみんなから「スタ公」と呼ばれ親しまれていた。しかも、変に日本人くさいゲンをかつぐところがある。いつも着替えのアンダーシャツをバスタオルでくるみ、ベンチに持って来るのだが、置き場が常に同じでないと承知しない。その見張りを千葉がうけ請負っていた。ところが悪戯好きの中島治康などはスタルヒンを怒らそうと時々すらしに来る。ベンチに戻って微妙なズレを見抜き、先輩の中島がやったと言えない千葉は、自分よりずっと背の高いスタルヒンから嵐のごとく罵声を浴びせられたというのだから迷惑な話だ。

こうしたスターたちも、やがてはマウンドを去り、生涯を閉じる時がやってくる。沢村と親しく話をすることなどなかった千葉だが、ひとつだけ印象に残っていることがある。大東亜戦争開戦の朝、「戦火が広まったぞ。おまえら(召集されたら)気をつけて行ってこい」。そのひと言を直立不動で聞いた。

その言葉を残し、昭和19年12月2日台湾沖で沢村は戦火に散った。わずか27歳だった。

スタルヒンもまた戦後数々の球団を転々と移り、昭和32年1月12日、車を運転中事故に遭い、40年という短い生涯を終えた。

沢村は投手の最高名誉である沢村賞として、スタルヒンは競技者表彰の第一号として殿堂にその名が刻まれている。

(1998年12月)